ゆらゆらと文月。

猫と暮らしたい。そんなことを思う。もう何年も前から波のように寄せては引き、そしてまた寄せてきた願望である。

昔動物に愛情を持てず、長く自分に戸惑っていた時期があった。‘愛情を持てない’というのは、「可愛い!」と飛び込んでいけない、というような感覚。小学生のころ下校時に犬の散歩をしているご婦人などと遭遇すると、友人たちが「可愛い!」と飛び込んでいくシーンを何度も目にした。野良猫やどこぞから抜け出したであろう飼い猫に対しても、彼女らは一様に「可愛い!」と駆け寄る。その瞬間がやってくるたび、後ろでぽつんとワンテンポ遅れて遠慮気味に一応駆け寄る自分に、いつも違和感が付きまとっていた。こんなポーズをしても何にもならないのに、なんだかその儀式みたいなものを上手く切り抜けないと人間としてこの人たちの仲間に入れてもらえないんじゃないかとドキドキしていた。
小学三年生頃になると空前のペットブームがクラスにやってきて、どんどんとクラスメイトがペットを飼い始めた。休み時間には犬派か猫派かが熱心に議論され、犬なら何犬が好きだという話から犬種に詳しい者が崇められたり、そんな年頃があったように思う。私もその時犬や猫の図鑑を開いて勉強してみたりしたけど当然頭に入ってこず、この私の動物への興味のなさ、というのか、愛情のなさ、というのか、「可愛い!」と飛び込んでいけない自分はどれほど冷酷な人間なのだろうか、と己に怖れを抱くほどであった。
後になって考えると、ただ動物が怖かっただけなのかもしれない。自分とは姿かたちの違う生命に、「可愛い!」では片づけられない感覚があった。同じ一つの命であって、対等に関わっていかなければ、と頑なに感じていたような気がする。もちろん「可愛い!」と駆け寄る人々もそうなのだろうけれど、私はその表現の仕方ではなかったのかもしれない。うまく言えないけれど。
そんな時代があったにも関わらず不思議なもので、いつの間にか猫がとても好きになった。とにかく可愛い。ぐちゃぐちゃと考える前に、もうすでに可愛い。猫と暮らしたい。切実である。しかし一つの生命を迎え入れるというのは勇気のいることで、なかなか踏み出せずにいる。彼らを迎えるには彼らの居場所と生活環境を整えなければならないし、他にも考えれば考えるほど気が遠くなりそうだ。実現するには、もう少し時間が必要らしい。

すぐに猫と暮らすことができないのであればと、何を血迷ったかバランスボールを購入した。いつか猫と暮らし始めても支障がないように、‘猫の毛がつかない’というレビューのあったものにした。それが一番の決め手になったといっても過言ではない。バランスボールというものが我が家にやってきたのは初めてなのだが、膨らませ少し弾んでみるとよくわからぬ温度で色めき立つリビングルーム。父が意外にも興味を抱いて、書斎まで持っていきボールに乗りながら姿勢よく仕事をしている姿を見るとさすがに笑った。いつものオフィスチェアで仕事をしている際はなんだか威厳があるけれど、それがバランスボールだとやはり可笑しい。母も母で隙を見つけてそれを父の書斎から救出し、ボールに乗って弾みながら刺繍をし出したりする。私は今母のアトリエからボールを救出して、少し弾みながらこの文章を書いている。愉快だ。

七月がやって来た。

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