連れて、帰りし、夏の夜。

歌うために旅人の部屋に忍び込んだのは夕刻過ぎだった。近所迷惑になるといけないので、歌うときはいつだって部屋中の窓を閉め切る。汗が背中から流れ落ちる頃窓を開け放つと、大きな風が一斉に吹き込んできて白いカーテンが揺れた。風がそれを揺らすのを眺めているときが、世界で一番幸福な時間かもしれない。とても穏やかな気持ちになって、生きていてよかったと思う。網戸の向こうにやって来た名前のわからない虫や、生き続ける写真たちにうつる瞳と見つめ合うこの部屋が、自分が今までこの場所で感じていたあらゆる瞬間よりも確かに平和で、やっとここまで来たなと、突然言いようのない幸福感と安堵感に包まれてしまって、危うく泣きそうになった。

父はこの時期に生まれた人で、しかし自分の誕生日には無頓着だった。夏の流星群がやって来て、彼らは毎年飽きることなく父を連れていってしまう。決まって主役が不在の誕生日、私は母と二人で近くの田んぼまで歩いて行って星を見た。お父さんも今空見てるんかなあ、ここでは曇って星見えへんなあ、ほな帰ろか。母と寝ぼけ眼で二言三言そんなやり取りをして家に帰る幼き夏の午前二時過ぎ。サンダルの底が地面にこすれる音だけが響く。

父に火星を見ようと誘われた。屋根裏部屋にあった小ぶりな望遠鏡をベランダに出したと言っていた。そんなんで星見れんの、見れる見れる、今日曇ってるやん、もう火星出てるで来てみい。半信半疑でベランダまで足を運んだ。広いとは言えないベランダにそれはどんと置かれていて、物干し竿にかかったままのランドリーハンガーに頭をぶつけながら望遠鏡をのぞく父の姿は少年そのものだった。火星を見て、土星を見て、木星を見て、また火星を見た。父がこんな仕事をしているのにも関わらず、私は天体のことが少しもわからない。幼き頃、星はいつも父を奪っていくものだった。父と星を見る日が来るなんて思ってもみなかった。

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