師走や行くな、いきつぎ、つぎ、へ。

耳の調子をなんとなく崩してしまって、いつもそばに在る恋焦がれる音楽も、どうにかして掴みたいきみの声も、膜が張った遠くの方から聞こえてくる。そもそも何不自由なく生活できているこの日常が奇跡であって、逃したくないあの音も、溢したくないきみの言葉も、それこそ、そんな存在にこの命で出会えたことすらも奇跡であって、気が遠くなる。日常は奇跡の連続であり、それが散らばった時間の中に生きている私たちは、儚い。改めて、染み入る。と思へど、気が緩んで呑まれ過ぎたり、気が緩まず泣いてみたり。令和元年が終わる。

 

久しぶりですね。

と、僕は言う。

そうですか?そんな感じもしないけど。

まるで隣にいるみたいに、真島路さんは何となしに言う。僕が思う彼女という存在への道のりと、彼女が思う僕という存在への道のりは明らかに違っていて、それはきっと、彼女の持つ本質的な強さが起因している。なるほど僕は、やはりふらふらとしている。

信じるということは、つまり己が腹をくくるということであって、それ以上でもそれ以下でもない、とあの人は言った。またこうやって、脳内で五月蝿い議論がはじまる。そもそもこの人間という存在の頼りなさよ。一寸先が続くのか、絶えるのか、その危うさよ。だからこそ懸命に掴もうとするのだけれど、するすると擦り抜けて。

関わると、どうしようもなく何か生み出したくなる。いや、生み出さねばならぬ。どうにかして遺さねばならぬ、と、どこからか勝手な使命感が生まれてきて、恐ろしいほど躍起になる己の性質有り、そんな気を起こさせる人と、ときたま出会う。出会うてしもうたが最後、その瞬間から言葉浮かび音流れ、映像までも流れはじめて、綴うてみたり描いてみたり歌うてみたり、とにかくさまざまな、可能な限り多角的に、四六時中、その存在に触れてみる。居ても立っても居られず、喉から手が出るほど掴みたいが、然れどどうしようもなく掴めないのが常である。それはもう、ずっと前から理解しておるが、未だ諦めつかず。己の持つ命とか、運とか、縁とか、もはや神頼みまでして、情けないほどに、切り取りたい。その人が存在している、或いは存在していた真実を、なんとかして遺さねばならぬ。一瞬も逃したくない。逃さない。というような人。時にどうしようもなく焦り、それこそ、どうしようもない。走る。走る。情けないほどに、走る。息も出来ぬほどに、手を伸ばす。このいのち在るうちに、どうにかして。どうにかして。

するすると、また彼女は擦り抜けるか。いや、どうにかしてその風を、一瞬だけでも。

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