父はいつもハンカチを持っていて、母と散歩がてら街を歩く際にふと入る手洗いののち、自分のハンカチを用意してその辺で彼女を待っている。彼女は濡れた手のまま彼のもとへ行き、彼から差し出されるハンカチで手を拭う。母はもしかしたら自分のハンカチを持っているのかもしれないが、と言うか、ここでは彼女がその日ハンカチを持ち歩いているか否かは重要ではない。彼女は、彼がハンカチを差し出してくれるこの瞬間がとても好きだと言った。何の気なしに母にハンカチを差し出す父を見てから、僕もハンカチを持ち歩くようになった。その彼らの空気感というか自然さみたいなものがどうしようもなく愛おしくて、僕も大切な人にそれを差し出せる人間になりたいと、なんとなく、でもとても強く思った。
ある日、真島路さんに用があって電話をすると、向こうの方で旦那さんの声がした。とてもしっとりとした、しかし張りのある声で彼女を呼ぶので、きっと彼は紳士なんだろうなと思う。じんわりと、彼女らの生活が受話器越しに滲んできて、遠く離れた僕の部屋にも染みてくる。
彼女と街を歩いていると、神様の居る森に辿り着いた日があった。僕たちは雑踏に飲み込まれて、もうどこにいるのかわからなくなっていた頃だったから、一度そこに立ち寄ることにした。〝だから私はこの街が好きなんです。街の中にこんな森みたいな場所があって、都会と自然が共存してるでしょ。〟きゅっきゅと音が鳴る長い砂利道を歩きながら、彼女は静かにそう言った。
手水舎で両手を清めた後、彼女は鞄の中から自分のハンカチを取り出そうとしていた。ポケットからすでに自分のハンカチを取り出していた僕は、なんとなく、それを彼女に差し出してしまった。彼女は少し困ったように笑って、僕のハンカチを受け取る。大きな風が吹いた。
もし来世があったとして、僕がまた彼女とすれ違える瞬間があるならば、今度は光の速さで彼女をさらいにいこう。