指輪、et cetera.
夫はenterキーを執拗に強く叩く癖があって、その音が廊下を通ってこの小さな家中に響き渡るのだが、耳障りで仕方がない。私は息を潜めて夜が明けるのを待つ。深く呼吸していると、だんだんとこの部屋にあるすべてのものと溶け合って...
夫はenterキーを執拗に強く叩く癖があって、その音が廊下を通ってこの小さな家中に響き渡るのだが、耳障りで仕方がない。私は息を潜めて夜が明けるのを待つ。深く呼吸していると、だんだんとこの部屋にあるすべてのものと溶け合って...
旅人が旅に出たのはもう幾年か前のこの日和で、だからこの家にチョコレート日和はありませぬ。チョコレート日和はないけれど、世は毎度、はいチョコレートだい、やいチョコレートだい、と騒がしゅう地デジ事情、と、チョコレート事情。そ...
会いたい、という感情は厄介で、会えない、ということは哀しみだと認識していた春があった。会いたい、と思っても、どうやったって逢えなくなってしまった人がいて、会いたい、という感情を捨てられたら、と思いつめていた冬があった。 ...
耳の調子をなんとなく崩してしまって、いつもそばに在る恋焦がれる音楽も、どうにかして掴みたいきみの声も、膜が張った遠くの方から聞こえてくる。そもそも何不自由なく生活できているこの日常が奇跡であって、逃したくないあの音も、溢...
そういえばそうやってびーびー泣いとったわ、あいつも、どうにもならんこといつまでもぐちゃぐちゃ言うて、騙された、騙された言うて、うるさい、なんやねんその目、お前の目おかしいぞ、おかしいやろ、 僕は目の前の女を殴っていた。次...
父はいつもハンカチを持っていて、母と散歩がてら街を歩く際にふと入る手洗いののち、自分のハンカチを用意してその辺で彼女を待っている。彼女は濡れた手のまま彼のもとへ行き、彼から差し出されるハンカチで手を拭う。母はもしかしたら...
長月の終わりごろ、憂鬱な曇り空ひろがる夕刻過ぎの新宿で真島路さんと出会った。新宿アルタの裏通りにある雑居ビルの喫茶店にさらりと現れる彼女に驚いて、僕は思わず下を向く。履き潰したスリッポンの爪先の汚れが気になって仕方がない...
残酷なものよなぁ。 と、目の前でうどんすするサラリーマンがぽつり言うので、雨降る外眺める新橋、目逸らし、午前九時。 ‘立ち食いうどん’にきっと初めて訪れたあたしゃ、うどん屋に訪れたことはあるけれども立ち食いうどんは初めて...