指輪、et cetera.

夫はenterキーを執拗に強く叩く癖があって、その音が廊下を通ってこの小さな家中に響き渡るのだが、耳障りで仕方がない。私は息を潜めて夜が明けるのを待つ。深く呼吸していると、だんだんとこの部屋にあるすべてのものと溶け合って、身体の形もあやふやになってくる。何日ぶりだろうか。やっと眠れるかもしれない。そんなときに限って、向こうから仕事を終えたであろうあの人の足音が近づいてくる。

のりちゃんは私の左手の薬指を見て、綺麗ね、と言った。そんな何気ない言葉が、たった一言が、確実にこの存在の奥深くに沈み込んでしまって、もう立ち上がれない。あれは何週も前のことなのに、ふと夕刻過ぎの台所に立つとき思い出されたりして呆然とする。それ以上でもそれ以下でもないこの私が、私自身が、私をどうすることもできずにいる。まな板に点々と透明の模様ができ始める。伝う塩水で、頬がひりひりする。やっとの思いで包丁を握り直す。

なぜそうなったのかはよく覚えていないけれど、彼とは一度だけ食事を共にしたことがある。なんとも言えない静けさを纏った人で、でもきっとこの人の奥には凄まじい怒りと断念が、ただしんしんと在るのだろうなと思った。だからこの人は、どうしようもないほどに冷え切った世界の中で、頼りなくひとり微笑むのだろう。そして私たちは、必ず出会うべき私たちだったのだろうけれど、幸か不幸かこの命で今日しか会えない。その今日が、とうとう来てしまった。そんな気がした。ぽつりぽつりと言葉交わす。時間だけが過ぎ去って、私は旅人のことを思い出した。旅人はきっと、この物語の最終回を知っている。私はその最終回に向かって、ただひたすらもがくだけだ。

こんなことなら、愛など誓わなけりゃ良かった。私が私で無くなっていくほどに、世界は輝いてゆく。祝福されてゆく。彼は言った。愛だよ、愛。最後は愛だよ。と。

私の愛は、あの日の愛だけだ。

安らかに眠る世の前、君と韻踏ミ。

旅人が旅に出たのはもう幾年か前のこの日和で、だからこの家にチョコレート日和はありませぬ。チョコレート日和はないけれど、世は毎度、はいチョコレートだい、やいチョコレートだい、と騒がしゅう地デジ事情、と、チョコレート事情。それに加え、インターネット事情ますますカカオに拍車かけ、この口の中はもう、チョコレート、食べとうございますチョコレート日和。僕は、何気ない顔で、日付の変わる少し前に涙流れてみたり、それはもう、理性ではどうしようもない感覚、気づけば、ほれ、もうそこに、ほれほれ、と、塩水頬伝ひ。どうしたって溢るる、もちろん強がりながら、どうしたものかと己に驚き、どうにもできぬ、と、音立てず、しかしまたしずく落ち堕ち、そしたら猫が訪ねて来るので、なんとなく猫を撫で撫で鼻すする。猫はキョトンと、この頬落つ塩水じっと、じっと眺め、ただ静かに。言葉なく、しばらく眺め、あくびひとつと寝息立てたて夜越し朝日か。とほほ、と、空見上げど、日は時は否応なしに進んでゆくわけで、言い訳はゆうておられぬ今日も今日とて、駅まで向かう道すがら思ふことあり。幾年か前のこの日より旅人出かけ懐かしゅう、しかし幾十年か前の明後日に、我が焦がれてやまぬ音楽家、この世に生まれ落ちたそうな。なんとも不思議な巡り合わせか。

チョコレート日和へ向かうたび下ばかり向いて歩いた日々あり、チョコレート日和ひとつ終わったかと思ふとまた次のチョコレート日和へ、はたまた終わり、また次のチョコレー、次のチョコ、次のチ………飽くなき下向き行進する日々ただ更新し続けた若者よ。おめえの事情なんか知らねえよ、と、どこぞの演出家に江戸弁でドヤされ続け芝居したあの若き日ももう過ぎた。

しかしあの日々が嘘のように、この音に浄化されゆく様々な瞬間か。とてもでないけれども、呼吸なぞし易くなる日が来るものか、来るものか、と堅く意地張る青い春あったが、今ならあの若者に言える。あとわずか呼吸すれば、し続ければ、出会える音があると。出会える音楽があると。出会える人がいると。だからただ、ただ歯食いしばり行進を更新しなせえ、と。今なら言える。

駅まで向かう道すがら、目の前を小走りして通り過ぎる乙女あり。左手に小さくヒンある紙袋さげ、おそらくそれは、チョコレート日和のためのチョコレートであろう。乙女や、愛し君へ会いにゆくのか。我と関係なく、チョコレート日和は相も変わらず、本年も、どこまでもチョコレート日和で、乙女は君へ、愛を告げに行く。また、どこかでこの瞬間にも新しい呼吸生まれ、また、旅立つ者あり。世は本日も、晴天なり。チョコレートかじる君の隣で、乙女は笑うだろう。黒髪揺らし何処かの君のもとへ急ぐ乙女よ、永遠に。

抱きしめるこの今、2020開幕。

会いたい、という感情は厄介で、会えない、ということは哀しみだと認識していた春があった。会いたい、と思っても、どうやったって逢えなくなってしまった人がいて、会いたい、という感情を捨てられたら、と思いつめていた冬があった。

どうやってこの秋を乗り越えれば良いのか、どうしたって呼吸するように涙溢るる、街も風も、こんなにも静かで、この曇り空のどこに向かえば救われるのだろう、そもそも救われることなどあるのだろうか、と想う東京の日があった。血の繋がりとは不思議なもので、そのとき旅人は大阪の病院に居て、僕はそれを知らなかった。知る由もなかった。でもとにかく、喉を掻きむしるような、もがくような、とんでもない空っぽが、体の芯の方をじんじんと凍えさせる。際限なく冷え切ったこの芯が、それでもまだ冷えてゆく。その感覚だけは覚えている。あの時間に旅人は宇宙を彷徨い、僕は床に頭をこすりつけて泣いていた。生きる場所が違えど、僕たちはひたすらに繋がっていたんだと、時が経ってから知った。

会いたい、という感情は厄介で、会えない、ということは哀しみだ。会いたかった、と思うことは、ないものねだりでどうしようもない。会いたかった、と人に伝えることは、幼さが滲み出るのでとても勇気がいることだ。

しかし、会えない、という時間は、再会をますます特別な日にするための、とても大事な時間なのだと、やっと、やっと解った。きみが今見ている景色をすべて見たいと、きみが今感じる音をすべて聴けたらどんなにも、と思っていたけれど、そんなことが出来た日にゃ、そりゃ贅沢で夢みたいなことだけれど、同時にそんなことを願う僕はとても傲慢で、それじゃ何も生まれない。僕が今見ている景色も、僕が今感じる音も、とても鮮やかで愛おしい。抱きしめる。抱きしめる。この今を、抱きしめる。そして、会いたい、と、真っ直ぐに。真っ直ぐに伝えよう。会いたかった、と、会いにいくよ、と、会えたね、と、真っ直ぐに、真っ直ぐに伝えよう。

だからこそ、僕たちはまた会える。また会えるだろう。

師走や行くな、いきつぎ、つぎ、へ。

耳の調子をなんとなく崩してしまって、いつもそばに在る恋焦がれる音楽も、どうにかして掴みたいきみの声も、膜が張った遠くの方から聞こえてくる。そもそも何不自由なく生活できているこの日常が奇跡であって、逃したくないあの音も、溢したくないきみの言葉も、それこそ、そんな存在にこの命で出会えたことすらも奇跡であって、気が遠くなる。日常は奇跡の連続であり、それが散らばった時間の中に生きている私たちは、儚い。改めて、染み入る。と思へど、気が緩んで呑まれ過ぎたり、気が緩まず泣いてみたり。令和元年が終わる。

 

久しぶりですね。

と、僕は言う。

そうですか?そんな感じもしないけど。

まるで隣にいるみたいに、真島路さんは何となしに言う。僕が思う彼女という存在への道のりと、彼女が思う僕という存在への道のりは明らかに違っていて、それはきっと、彼女の持つ本質的な強さが起因している。なるほど僕は、やはりふらふらとしている。

信じるということは、つまり己が腹をくくるということであって、それ以上でもそれ以下でもない、とあの人は言った。またこうやって、脳内で五月蝿い議論がはじまる。そもそもこの人間という存在の頼りなさよ。一寸先が続くのか、絶えるのか、その危うさよ。だからこそ懸命に掴もうとするのだけれど、するすると擦り抜けて。

関わると、どうしようもなく何か生み出したくなる。いや、生み出さねばならぬ。どうにかして遺さねばならぬ、と、どこからか勝手な使命感が生まれてきて、恐ろしいほど躍起になる己の性質有り、そんな気を起こさせる人と、ときたま出会う。出会うてしもうたが最後、その瞬間から言葉浮かび音流れ、映像までも流れはじめて、綴うてみたり描いてみたり歌うてみたり、とにかくさまざまな、可能な限り多角的に、四六時中、その存在に触れてみる。居ても立っても居られず、喉から手が出るほど掴みたいが、然れどどうしようもなく掴めないのが常である。それはもう、ずっと前から理解しておるが、未だ諦めつかず。己の持つ命とか、運とか、縁とか、もはや神頼みまでして、情けないほどに、切り取りたい。その人が存在している、或いは存在していた真実を、なんとかして遺さねばならぬ。一瞬も逃したくない。逃さない。というような人。時にどうしようもなく焦り、それこそ、どうしようもない。走る。走る。情けないほどに、走る。息も出来ぬほどに、手を伸ばす。このいのち在るうちに、どうにかして。どうにかして。

するすると、また彼女は擦り抜けるか。いや、どうにかしてその風を、一瞬だけでも。

カサと擦れて、夜を越すれど。

そういえばそうやってびーびー泣いとったわ、あいつも、どうにもならんこといつまでもぐちゃぐちゃ言うて、騙された、騙された言うて、うるさい、なんやねんその目、お前の目おかしいぞ、おかしいやろ、

僕は目の前の女を殴っていた。次の瞬間女は跳ねて、それから鈍い音がして、床にだらりと丸太みたいに転がった。しきりにしゃくり上げているようだから、まだ死んではいない。僕は、45Lのゴミ袋を流しの引き出しから乱暴に取り出して、捨てろ、全部捨てろや、と叫んでいる。自分はなにをしているのかな、と思う。昔、同じようなことを誰かにされたな、と、どこかで分かっている。女は腹を押さえながらむくりと起き上がって、大切にしていたであろう欠片たちを泣きながらゴミ袋に入れていた。膨れ上がった袋の前で呆然と佇み続ける女が鬱陶しいから、僕はすかさずそれを奪い取って外のゴミ集積所に持って行く。頼りない蛍光灯の下、いつかの淀んだ臭いが残ったステンレス製のトラッシュシェルターの蓋を開けて、憎い欠片を投げ込む。ガンッと何かとぶつかって、欠片は暗闇に消えた。見えなくなったそれをしばらく見つめていると、これ以上ないほど安堵している自分がいる。目が覚めた。

 

大丈夫ですよ。

受話器越しに真島路さんは言う。いつもよりもっと静かに、でも確かに、ゆっくりと。

大丈夫です。

彼女はまた言う。こちらを異物だとか異常だとか、そんな風には全く感じていないかのように。ただ、同じ人間として、さりげなく。どうしようもない僕は、なんとなく、どうしようもないことも、どうにもできなかったことも、大丈夫なのかもしれない、と思った。しばらくすると向こうのほうでカサカサと紙が擦れる音がして、すみません、少し書類の整理をしていますと、彼女はふふっと笑う。それから少し沈黙があって、またカサカサと音がする。すみません、すみません、クククッと小さく笑って、彼女はまた書類の整理を始める。

ハンカチーフと、神様の居るところ。

父はいつもハンカチを持っていて、母と散歩がてら街を歩く際にふと入る手洗いののち、自分のハンカチを用意してその辺で彼女を待っている。彼女は濡れた手のまま彼のもとへ行き、彼から差し出されるハンカチで手を拭う。母はもしかしたら自分のハンカチを持っているのかもしれないが、と言うか、ここでは彼女がその日ハンカチを持ち歩いているか否かは重要ではない。彼女は、彼がハンカチを差し出してくれるこの瞬間がとても好きだと言った。何の気なしに母にハンカチを差し出す父を見てから、僕もハンカチを持ち歩くようになった。その彼らの空気感というか自然さみたいなものがどうしようもなく愛おしくて、僕も大切な人にそれを差し出せる人間になりたいと、なんとなく、でもとても強く思った。

 

ある日、真島路さんに用があって電話をすると、向こうの方で旦那さんの声がした。とてもしっとりとした、しかし張りのある声で彼女を呼ぶので、きっと彼は紳士なんだろうなと思う。じんわりと、彼女らの生活が受話器越しに滲んできて、遠く離れた僕の部屋にも染みてくる。

彼女と街を歩いていると、神様の居る森に辿り着いた日があった。僕たちは雑踏に飲み込まれて、もうどこにいるのかわからなくなっていた頃だったから、一度そこに立ち寄ることにした。〝だから私はこの街が好きなんです。街の中にこんな森みたいな場所があって、都会と自然が共存してるでしょ。〟きゅっきゅと音が鳴る長い砂利道を歩きながら、彼女は静かにそう言った。

手水舎で両手を清めた後、彼女は鞄の中から自分のハンカチを取り出そうとしていた。ポケットからすでに自分のハンカチを取り出していた僕は、なんとなく、それを彼女に差し出してしまった。彼女は少し困ったように笑って、僕のハンカチを受け取る。大きな風が吹いた。

もし来世があったとして、僕がまた彼女とすれ違える瞬間があるならば、今度は光の速さで彼女をさらいにいこう。

燻らす25秒と、マシュマロについて。

長月の終わりごろ、憂鬱な曇り空ひろがる夕刻過ぎの新宿で真島路さんと出会った。新宿アルタの裏通りにある雑居ビルの喫茶店にさらりと現れる彼女に驚いて、僕は思わず下を向く。履き潰したスリッポンの爪先の汚れが気になって仕方がない。他の客の笑い声が遠くで耳障りに響く。どうしようか、と思う。どうにもできないな、と思う。もう何も隠せないな、とも、思う。

彼女はチョコレート入りのマシュマロみたいな人で、寄せては返す穏やかな波のように話し、ときどき、静かに笑う。一見甘くてふわふわとしているように感じるけれど、本当は真ん中のチョコレートに鋭い刃を隠し持っているんだと思う。その刃はいつだって丁寧に、丹念に、彼女によって日々研ぎ澄まされているのだけれど、決して不要に他者を傷つけたりはしない。それはあまりにもしなやかに、さりげなく、いつの間にか、美しく迫ってくる。あの25秒もそうだった。

彼女の25秒は煙のようだ。誰かいるなと思って振り返ると、そこには誰もいない。また呼ばれた気がして何処かを見るけれどなにもなく、今度はうっすらと甘い香りが鼻腔をくすぐる。香りの先にはゆっくりと立ち昇る煙が見えて、どうにか手を伸ばすが掴めない。あきらめた手の平にははっきりと残り香が漂って、静寂は続く。僕はまた、振り返る。

25秒で猫は欠伸をして眠り、僕は旅人の真っ白い骨を思い出す。世界で一番美しいその白は、窓から降り注ぐ光に照らされて、ますます白く輝く。真島路さんの25秒は、きっといつだって、僕たちを妖艶に惑わす。

喫茶店を出ると空は泣き出していて、僕の頼りない折り畳み傘で二人して駅まで向かった。

 

雨に濡れてはいませんか。

 

彼女は僕に静かに問う。僕の片方の肩はすでにしっかりと濡れていて、それでも雨は降り続ける。地面に落ち跳ね返ってくるそれが、もう足の爪先まで染みてきてじんわりと冷たい。この瞬間だけは永遠か。彼女の横顔を盗み見る。

彼女さえ雨に打たれなければそれでいい、そう思った。

父の足跡。

父の青春と学びの地に訪れたとき、私はその街について何も知らず、しかしどの道を歩けども歩けども、この今踏みしめるアスファルトは敷き直されど、並ぶ店々は変われど、きっと数十年前にあの青年もこの道を歩いていたのだろう、雨の日も、晴れの日も、歩いていたのだろうなどと考えると、心が騒がしくどうしようもない。

日が高いうちに父の母校を訪れ、よく分からぬまま父が学んだ校舎の前にひとりぼうと立つ。中に入る勇気は無いなぁとうろたえている頃、教員のような殿方が校舎から出ていらしたが、‘地質学科はどこですか’と尋ねるその一言が出てこず、そのままになってしまった。

安曇野にある美術館には、愛らしいベンチがある。そこは父母が新婚旅行で訪れた場所らしく、そのベンチを父は好きだと言った。同じ形のベンチが複数あるので、どのベンチに二人が座ったのだろうか、少しずつあちこちのベンチに座ってみたり凭れてみたりした。信州はもう涼しく、木の葉が所々赤くなっている。夕暮れ時だった。

宿への帰り道、暗闇の街を走るバスはまたあの大学の前を通って、校舎の窓からはまだ灯が漏れていて、かつての青年もこんな風だったのだろうかと思い馳せる。あの窓際に青年が居たのだろうと、バンカラ世代の名残を受け継いだ彼らを見たような気がして、ゆらゆらと揺れる車内でしきりに涙が流れた。我が故郷より少ない、でも確実に煌めく夜街に、帰る場所はきっと幾らでもあるのかも知れぬなどと甘ったれたことを思ったりした。しかしこの‘甘ったれ’は所謂それではなく、この土地はきっと、私の知らぬうちにこの身体の血肉となり、彼が過ごしたこの場所は、どこか優しい、そして厳しい場所なのだろうと、流れゆく景色は滲むばかりであった。

うどん啜りゃ、あたしゃ。

残酷なものよなぁ。

と、目の前でうどんすするサラリーマンがぽつり言うので、雨降る外眺める新橋、目逸らし、午前九時。

‘立ち食いうどん’にきっと初めて訪れたあたしゃ、うどん屋に訪れたことはあるけれども立ち食いうどんは初めて、で、朝からうどんを喰らいたいと思い歩む街で見つけたうどん屋の店内は、ピークを過ぎた静けさ寂しさ。あたしの後から入る殿方はスーツ姿で、慣れた手つきで朝定食を注文するのに、あたしゃなんだかんだと慣れん手つきで、店員の殿方との距離感もどことなくぎこちなく、かしわの天ぷらに笑われたなこりゃ。ほんなら君も食べたるわ。そいつも一緒に盆にのせのせ、煙の向こうに溶ける厨房のタイマー眺めてみたり。レジ担当の殿方も会計前に面倒くさそうな、この立ち食いうどん屋の勝手を分からぬまま朝から乗り込んできたあたしを目の前に、苦い顔して、それでも割り箸をぽんと器にのせてくれたさり気無い心遣いに、この心持ち直す単純さ。そうそう、あたしゃ割り箸もどこにあるか気付かんかったから。優しいなぁおっちゃん!と、やはり易々と持ち直すこの心の単純さをコメカミに引き摺ったまま、背の高い黒テーブルに歩み進める。

何を血迷ったか、例の後から入ってきたサラリーマンの鞄が置いてある目の前の席を陣取ってしまって、しまった、と思ったがもう手遅れ、ほかほかのうどん乗せた盆を持ったサラリーマンが戻ってきてしまった矢先、誰もさして気にしていないだろうに‘今ここで場所を変えるべきかあたし、嗚呼わざわざこんな、他に余るほど席があるのにここを選んでしまったあたし、朝一番の殿方の食事をストレスフルに仕上げてしまうかもしれぬこの眼前のあたし…’と、脳みそのあちこちから悲鳴が上がる30秒、ののち、結局席を変更できぬまま、いただきますと手を合わせる立ち食いうどん。

ちろちろと、どことなくお互いを見ないように、しかし盗み見ながらうどんをすする殿方とあたし、あたしゃ見てないよ、外は雨やねぇ、なーんて澄ました顔でうどんのつゆすすってたら、またかしわの天ぷらが笑てきたから腹立たしく、だまりんしゃいと一気に半分齧ったった。そうこうしてたら殿方はぽつりと、

残酷なものよなぁ。

と。

はっと殿方の顔覗けども、彼は変わらずうどんすするだけ。一体どこから聞こえたんやろかあの声は。そちらの方から確かに、物凄い説得力で迫り来るそいつ。時折殿方はあたしを見て、またあたしが殿方を見て、目が合う前に二人して外を見て。見知らぬ人とたまたま共に食す立ち食いうどんで、こんなに会話があるとは。感心しながらうどんのつゆを呷って、お椀越しにまた眺む。

戯れ言ひとつと、

風が柔らかく、優しくなって、ひとつ、また季節が変わったなあと言う実感。それ吹くたび草木揺れるが、以前の揺れ方とまた違う。
先日まで雨続きだった。激しいものであった。雨はどうしたものか、あまり好きになれぬ。まず、お天気にどうこうと左右されるのが良くない。良くないけれども、どうも。
やはり空は青い方がいい。さわさわと葉が揺れるのもいい。窓から木漏れ日が、限りなくちろちろ揺れるのも、またいい。

猫は小さな体で、よく外を眺めている。なんとなく猫の体臭が好きで、よく、猫に顔を埋めて深呼吸をする。体臭といっても、特になんの匂いもしない。小さな体は脈々とおなじリズムで脈打ち、なんとなく、生きているのだな、と、安心する。もふもふと体毛は柔らかく優しく、ただなんとなく、そこに居る。
近頃、なんとなく、というのがとても多い。なんとなく、というのはとても大事なことだなあと感ずる。そこにただ、流れる、というのか、居る、というのか、その自然さ、それは人工的なものではなく、あくまで自然。そういう‘なんとなく’という感覚は、宝石みたいなものだなあと。もしや秋だからあるのかも知れぬ。きっと秋だから、いつもより書くものにも句読点が多い気がする。足取りは今一度、ゆるりと。踏みしめて。それは、気温とか天気とか、風とか匂いとか、そういうものでどんどんと変化していく、とても繊細なもので、これこそ呼吸をしているようなもの。

‘間’というのは、とても大事なものよなあ。距離というのか、空気というのか。よくわかっていないものを知ったふりしてはいけないなあと、つくづく、人のふり見て思ふ。きっとまだまだ、何もわかっていない。死ぬまでわからぬものを、わかったような顔をして大手を振る人間にだけはならぬよう、それこそ気を引き締めて。痛みを馬鹿にしちゃあいけない。秋風のように優しく。

最近、旅をよくする。そんな私を見て、呼ばれてるんやね、と、母がぽつりと。え、と聞き返すと、「呼ばれてるんやわ、土地に。」と。
呼ばれてるんやわ。だってそんなとこ行ったことないやんあんた。でも行きたいんやろ。呼ばれてるんやわ。

猫が隣で眠り始めた。