会いたい、という感情は厄介で、会えない、ということは哀しみだと認識していた春があった。会いたい、と思っても、どうやったって逢えなくなってしまった人がいて、会いたい、という感情を捨てられたら、と思いつめていた冬があった。
どうやってこの秋を乗り越えれば良いのか、どうしたって呼吸するように涙溢るる、街も風も、こんなにも静かで、この曇り空のどこに向かえば救われるのだろう、そもそも救われることなどあるのだろうか、と想う東京の日があった。血の繋がりとは不思議なもので、そのとき旅人は大阪の病院に居て、僕はそれを知らなかった。知る由もなかった。でもとにかく、喉を掻きむしるような、もがくような、とんでもない空っぽが、体の芯の方をじんじんと凍えさせる。際限なく冷え切ったこの芯が、それでもまだ冷えてゆく。その感覚だけは覚えている。あの時間に旅人は宇宙を彷徨い、僕は床に頭をこすりつけて泣いていた。生きる場所が違えど、僕たちはひたすらに繋がっていたんだと、時が経ってから知った。
会いたい、という感情は厄介で、会えない、ということは哀しみだ。会いたかった、と思うことは、ないものねだりでどうしようもない。会いたかった、と人に伝えることは、幼さが滲み出るのでとても勇気がいることだ。
しかし、会えない、という時間は、再会をますます特別な日にするための、とても大事な時間なのだと、やっと、やっと解った。きみが今見ている景色をすべて見たいと、きみが今感じる音をすべて聴けたらどんなにも、と思っていたけれど、そんなことが出来た日にゃ、そりゃ贅沢で夢みたいなことだけれど、同時にそんなことを願う僕はとても傲慢で、それじゃ何も生まれない。僕が今見ている景色も、僕が今感じる音も、とても鮮やかで愛おしい。抱きしめる。抱きしめる。この今を、抱きしめる。そして、会いたい、と、真っ直ぐに。真っ直ぐに伝えよう。会いたかった、と、会いにいくよ、と、会えたね、と、真っ直ぐに、真っ直ぐに伝えよう。
だからこそ、僕たちはまた会える。また会えるだろう。