夫はenterキーを執拗に強く叩く癖があって、その音が廊下を通ってこの小さな家中に響き渡るのだが、耳障りで仕方がない。私は息を潜めて夜が明けるのを待つ。深く呼吸していると、だんだんとこの部屋にあるすべてのものと溶け合って、身体の形もあやふやになってくる。何日ぶりだろうか。やっと眠れるかもしれない。そんなときに限って、向こうから仕事を終えたであろうあの人の足音が近づいてくる。
のりちゃんは私の左手の薬指を見て、綺麗ね、と言った。そんな何気ない言葉が、たった一言が、確実にこの存在の奥深くに沈み込んでしまって、もう立ち上がれない。あれは何週も前のことなのに、ふと夕刻過ぎの台所に立つとき思い出されたりして呆然とする。それ以上でもそれ以下でもないこの私が、私自身が、私をどうすることもできずにいる。まな板に点々と透明の模様ができ始める。伝う塩水で、頬がひりひりする。やっとの思いで包丁を握り直す。
なぜそうなったのかはよく覚えていないけれど、彼とは一度だけ食事を共にしたことがある。なんとも言えない静けさを纏った人で、でもきっとこの人の奥には凄まじい怒りと断念が、ただしんしんと在るのだろうなと思った。だからこの人は、どうしようもないほどに冷え切った世界の中で、頼りなくひとり微笑むのだろう。そして私たちは、必ず出会うべき私たちだったのだろうけれど、幸か不幸かこの命で今日しか会えない。その今日が、とうとう来てしまった。そんな気がした。ぽつりぽつりと言葉交わす。時間だけが過ぎ去って、私は旅人のことを思い出した。旅人はきっと、この物語の最終回を知っている。私はその最終回に向かって、ただひたすらもがくだけだ。
こんなことなら、愛など誓わなけりゃ良かった。私が私で無くなっていくほどに、世界は輝いてゆく。祝福されてゆく。彼は言った。愛だよ、愛。最後は愛だよ。と。
私の愛は、あの日の愛だけだ。