鏡越しに君、その向こうに踊り子。

猫は夜中に目覚めてはこの部屋を徘徊し、気まぐれににゃあと一鳴きする。悪い夢を見るたびそちらで叫び、と同時にこちらでも叫び、自分のうめき声で飛び起きる私は、豆電球の明りの中で猫と目が合う。ピアノの上でじっとこちらの様子をうかがう猫は、しばらくするとべたっと横になりまた眠り始める。彼は眠りたいときに好きな場所で眠り、退屈になると人間に近寄ってきて顔を擦りつけ、飽きれば人間らの手を小さく噛みどこかに行き、気付けばまた足音もなく隣で眠っていたりする。朝になると窓辺で庭の花木を眺め、哀愁を帯びた背中で時たま尾を揺らす。何を見ているのかと問うても、こちらを一瞥するだけでまた外を眺める。何かを思い出しているかのような横顔に時が止まる束の間、生ぬるい風が吹く。

蝉の声が入り込んだ歌の仮音源を送ったのだけれど、それを使っての踊りのリハーサル映像を送っていただいた日があった。私がこの場所で録音したものが遠くの地のスピーカーから流れていて、そこにはもちろん蝉の声も入っているのだけれど、確かにこの場所で録った自分の声が流れていて、どうしたものか、改めて、あるいは初めて感じるような感動の渦に巻き込まれた。私はこの場所に居て、彼らはあの場所に居て、確かに同じ時を生きているのだ。電波というものに感謝すればよいのか、テクノロジーというものに感謝すればよいのか、はたまた先人たちが行き着いてくれた跡々に感謝すればよいのか、とにかく文明を創って来た多方面の方々に感謝したいと勝手に盛り上がってしまって、まずそれ以前に彼らの生きる踊りに感動したのは言うまでもなく、気持ちが溢れては何度も見、それからまたたくさんの踊りを、今度は動画共有サイトで小さな画面越しに見続けた。出会った踊り子たちが、大阪メトロの中でも確かに踊っていて、その呼吸も、指先一本も、生きている。踊りはいつだって美しい。いつ観ても思うけれど、このターンは、このステップは、この踊り子にとって何万回目のものなのだろうかと思うと途方もなく、目頭が熱くなる。次にこの目で直接観られるのはいつになるのだろうか、彼らに会えるのはいつになるのだろうか、目撃したい、目撃しなければならない芸術に恋い焦がれて、メトロは走り続ける。

旅人が最後に愛したのは踊り子で、私はその人を知らない。この街のどこかに居るのかもしれないけれど、知る由もない。そんなことをふと思いガラスに映るこの分身に見つめられ、気付けば終着駅か。

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