また会おう、また会おう、また会おう。

‘待つ’ということが、己の人生の課題であるような気がしている。とんでもなく‘待てない’人間でもないが、‘待つ’ことが得意、というわけでもない。実際に‘待つ’ときにはなんとなく気合いみたいなものが必要で、冷静でいようと意識的に自分をコントロールしているような、どこか装っているような感じがして、その演技に自分が疲れてしまう。きっとこれは、待てていないということなのだろう。本当に何の気なしに、ただ‘待つ’。苦でもなんでもなく、ただ‘待つ’。そこにただ‘在る’。そんなことが出来るようになれば、この命の幾分かの時間がもっと緩やかになるのではないか、と想像している。

朝起きたら私は旅先の沖縄で、ニュースを見ながら‘北海道やばいね’という友人に、寝ぼけてよくわからない返事をしてしまった。彼女が不思議そうな顔をしてこちらを見たので、なんだかまずいことを言ってしまったのかしらと思い、慌ててテレビ画面に目を向ける。てっきり直近の台風の影響で北海道に何らかの被害が出ている云々ということかと思っていたら、全く新しい災害が、一晩のうちにまた起こっていた。

どうしたものだろうか、と思った。南の島で関空浸水の報せを受け取り大阪に帰る便がなくなった昨夜、福岡経由で帰ることにしたところ。実家の被害状況やらを電話でちょこちょこと、旅先で夢を見ているかのような、遠い国の話のような気持ちで、ふわふわと聞いていた。電話口で父母は冷静で、きっと窓ガラスが割れたあの部屋で私に電話をしているのだろうなとなんとなく思いながら、ぼんやりと、でもはっきりと、南の島の夜は更けてゆく。

もう会わないだろうなとどこかで感じている人が確か北海道にいるはずで、地面がひび割れる映像が流れるテレビ画面をぼうと眺めながら、その人のことを考えていた。連絡できないなぁと直感的に思って帰り支度を始める。連絡先もよくわからないし、スマホの充電がなくなるから災害時は無闇に連絡しないほうがいいと聞いたことがあるし。沢山の言い訳を用意して、空港行きのバスに乗る。

那覇から福岡行きの飛行機が飛び立つ直前、やはり気になって試しに連絡してみる。人に連絡をするのは、いつだって緊張する。どんなに機械が発達しても、いつまでもガラス瓶に小さな手紙を入れて海に流すような感覚があって、とても不確かなものであるような気がする。届くかどうか分からない。きっと傷つきたくないだけだから、こんな保険をかけるのだろう。頭では分かりきっているのに、また憂鬱になる。

ごちゃごちゃと考えながら連絡すると、すんなりと返事がきて驚いた。一言二言のやり取りで、もう会わない人はやはり北海道にいて、そこで呼吸している。ほっとした。 なんとなくまた会おうと書きたくなって、そのまま書いた。‘君がもし男なら、僕らきっと親友になってた。’と言われた日のことを思い出した。

この瞬間、‘また会おう’だけがきらきらと光っていて、猛烈に必要な気がした。一向に正解に辿り着かないこの命で、また己を守ったこの命で、きっと己の気休めの為に言ってしまった‘また会おう’が、液晶に浮かび上がる。何が正解なのだろうか。どうすることもできぬ。目頭が熱くなって悔しい。これも全て、偽善なのだろうか。

気づけば飛行機は、もう空を飛んでいた。

喉仏まで見せてよ。

君は会話をする際、度々口を隠した。いつもじゃないけれど、少し口を大きく開けて発音しなければならない音が来るとき、あるいは少し笑ったりするときに、左手の指を柔らかく曲げて、まるで卵を包み込むかのような指先で、しかしぴっちりと指を揃えて、それを口元に持っていく。もう今日はいくつもの言葉を交わしたし、きっと何百個くらいかは単語も繋げたけれど、控えめに、でも圧倒的な存在感のその左手、何度も何度も口を隠すその左手、と、君。

きっと何か隠したいんだろうなとなんとなく勘付いて、それから、隠したい、というのではなく、この人はもう既に何かを隠しているんだな、と思った。一度そんなことに気付いてしまったが最後、会話に集中できなくなってしまって、口を覆い隠すその左手ばかりが気になってくる。ほんの一単語を発語する際に口元を隠したときと、小説にすると二行分くらい喋っている際に口元を隠し続けていたときと、その違いははたして何なのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、薄く流れているはずの有線のJ-POPヒットチャートの方が大きく聴こえてきたりして、どうしようもない。繰り返し同じ曲順で流れるそれがサザンオールスターズに戻ったころにはもう、何人もの人たちが通り過ぎていった。

阪急電車はごとん、ととん、と。

阪急電車というのはいつだって魅力的である。特に馴染みもないし、時たま京都に用がある時に乗車するくらいなのだけれど、梅田駅付近で‘阪急電車のりば’という案内看板などがちらほらと出てくると、なんとも言えない高揚感が湧き上がってくる。大阪メトロ梅田駅を越え、阪急梅田駅に辿り着いた際の視界の開け方、というのか、メトロの蛍光灯の冷たさから一気に照明が柔らかな、そして紅らんだような印象に変わり、大きな階段がどでんと現れ、太い柱が、あれはなんの石でできているのだろうか、とにかく上質そうな石でできている柱の周りを、たくさんの人が往来している。

阪急電車は地上を走るから街が見え、田んぼが見え、空が見え、光いっぱいに照らされる車両に、停車してまた動き出す際の‘ごとん、ととん’が極め付けである。これが雨の日ならばまた印象が変わるのだろうけれど、本日は快晴なり。たくさんの光が、光に、光を浴びて、みな運ばれて行く。

それに、‘はんきゅう’という、なんともアンニュイで艶のある音の響き!なんなのだろうか、この音は。うまく言葉では表せない魅力が詰まっており、どことなく秘密めいている。

阪急電車で誰かに会いに行ったり、阪急電車で別れの涙を流したり、どうせ生きて心乱されるならば、帰り道は阪急電車が良い。どうしたって、阪急電車が良い。

シャンパンは夜の彼方の。

とても綺麗に髪の毛を結っている女性がいて、彼女は友人とエスカレーターに乗っていた。手に握るスマートフォンにはInstagramらしきアプリが開かれていて、チラチラと光っている。それを眺めながら時たま友人の話に相槌を打つ彼女は、黒いロングカーディガンを着ていたのだけれど綺麗に裏返しに着てしまっていて、洗濯表示タグと首元のブランドタグがヒラヒラと風に揺れている帰り道。彼女はそのことに全く気づいていなくて、頬は少し紅く染まっていたから恐らくほろ酔い気分で、男の話をしていた。小洒落たヒールがカツンカツンと高く鳴って、サラリーマンの背中に埋もれて消え行く洗濯表示タグを遠目に見ながら、私もサラリーマンの背中に埋もれて行く。

隣に座った女は今月3日しか休みがない、と零す。その言葉をだらりと隣の男が受け取って、なんとなく車両に漂い続ける台詞のような言葉たちが耳から離れず、メトロはどんどんとこの肩を揺らして人々を運んでゆきます、運んでゆきます。

今日はたくさんの大人に会った。たくさんの大人はスーツに身を包んでいて、クールビズなんて言ってもやはりスーツはスーツで、糊のきいたカッターシャツの擦れる音がする度になんだか緊張した。私はというといつも通りのワンピースで、なんだかよくわからないまま夜が来て、たくさんの大人がたくさんの汗を流し流し世の中が動いていることを改めて理解したかのような時間があり、衝撃波で動けなくなりそうな夏の終わり。相棒のギターは鳴りに鳴ってくれたけれど、大きな声で歌えたけれど、正解なんて分からない。きっとそんなもの永遠に分からないのだろう。夜は私たちに平等に影を落として。

まる、てん、加速、イ、ロ、ハ。

過去に引き戻され苦しむ瞬間があって、それは本当に些細なきっかけで思い出され、またかと、憤りに震える。またお前か、と、まだ顔を出してくるのか、と、いい加減にしてくれ、と、怒鳴られ続けた日々を越え、血走った眼、欲吐き捨てられ続けた日々を越え、やっとここまで生き延びたのに、また同じような瞬間、場所が変わり、人が変わり、また同じような瞬間、また、また、その根源に居るのはいつも同じ顔で、もう思い出されず、青白い死んだ陶器のような肌に、目元口元は永遠にモザイクがかかったかのような映像が繰り返し脳内で再生される、震える、南海電車が走っていた。裸の線路に飽きることなく電車は行ったり来たりしていて、頼りない錆びた柵と、その上の有刺鉄線も錆びついて、ホームで待つ人だかりに見下げられながら、自転車を漕ぎ続ける、雨の匂いがした、と思った途端に本当に雨が降って来て、小粒だったのがだんだんと大粒になって来て、それは毛髪を搔い潜り頭皮にじっとりと降り注ぐ、一粒、一粒、ぼつり、ぼつり、と、その度に、頭をどん、どん、と殴られているような気がして、空から降る匂いに一一苛立つ。街の暗がりは刻一刻とこの存在を隠すように、しかし走り抜ける電車の前照灯に時たま照らされ、どこまで見透かされているんだろうか、怯えたがあっという間に通り過ぎまた闇夜に飲み込まれ、この肉体も全て飲み込まれたのだろうか、自転車の籠に付けた百八円の前照灯もどきが頼りなさ過ぎて、光って、踏切が、学生時代の八時十二分を思い出させ、この踏切を渡れば、渡りさえすれば君に会えると走り続けた青さが、鮮やかに闇夜に蘇る。そんな瞬間と、年を重ね体得してきたイロハたちと、確実に死んでいった精神と、それでも続く生命、生命、生命、甘えるなとどこからかまた罵声が飛んできて、己が選択したのだと、気付かなかった、見抜けなかったお前のせいだと、加速する欲まみれのバケモノはモザイクで、止まらないバケモノはますます声を荒げ、もうやめてくれと藁にもすがる思いで上を向く。空っぽが、あの街より確実に広くて、電線の数は圧倒的に少なくて、私はまだ、自転車を漕いだままで、どこに向かうのだろうか、何度も苛まれる記憶に怯えながら、どこに向かうのだろうか、また踏切を越えて、それでも道は続く。

鏡越しに君、その向こうに踊り子。

猫は夜中に目覚めてはこの部屋を徘徊し、気まぐれににゃあと一鳴きする。悪い夢を見るたびそちらで叫び、と同時にこちらでも叫び、自分のうめき声で飛び起きる私は、豆電球の明りの中で猫と目が合う。ピアノの上でじっとこちらの様子をうかがう猫は、しばらくするとべたっと横になりまた眠り始める。彼は眠りたいときに好きな場所で眠り、退屈になると人間に近寄ってきて顔を擦りつけ、飽きれば人間らの手を小さく噛みどこかに行き、気付けばまた足音もなく隣で眠っていたりする。朝になると窓辺で庭の花木を眺め、哀愁を帯びた背中で時たま尾を揺らす。何を見ているのかと問うても、こちらを一瞥するだけでまた外を眺める。何かを思い出しているかのような横顔に時が止まる束の間、生ぬるい風が吹く。

蝉の声が入り込んだ歌の仮音源を送ったのだけれど、それを使っての踊りのリハーサル映像を送っていただいた日があった。私がこの場所で録音したものが遠くの地のスピーカーから流れていて、そこにはもちろん蝉の声も入っているのだけれど、確かにこの場所で録った自分の声が流れていて、どうしたものか、改めて、あるいは初めて感じるような感動の渦に巻き込まれた。私はこの場所に居て、彼らはあの場所に居て、確かに同じ時を生きているのだ。電波というものに感謝すればよいのか、テクノロジーというものに感謝すればよいのか、はたまた先人たちが行き着いてくれた跡々に感謝すればよいのか、とにかく文明を創って来た多方面の方々に感謝したいと勝手に盛り上がってしまって、まずそれ以前に彼らの生きる踊りに感動したのは言うまでもなく、気持ちが溢れては何度も見、それからまたたくさんの踊りを、今度は動画共有サイトで小さな画面越しに見続けた。出会った踊り子たちが、大阪メトロの中でも確かに踊っていて、その呼吸も、指先一本も、生きている。踊りはいつだって美しい。いつ観ても思うけれど、このターンは、このステップは、この踊り子にとって何万回目のものなのだろうかと思うと途方もなく、目頭が熱くなる。次にこの目で直接観られるのはいつになるのだろうか、彼らに会えるのはいつになるのだろうか、目撃したい、目撃しなければならない芸術に恋い焦がれて、メトロは走り続ける。

旅人が最後に愛したのは踊り子で、私はその人を知らない。この街のどこかに居るのかもしれないけれど、知る由もない。そんなことをふと思いガラスに映るこの分身に見つめられ、気付けば終着駅か。

連れて、帰りし、夏の夜。

歌うために旅人の部屋に忍び込んだのは夕刻過ぎだった。近所迷惑になるといけないので、歌うときはいつだって部屋中の窓を閉め切る。汗が背中から流れ落ちる頃窓を開け放つと、大きな風が一斉に吹き込んできて白いカーテンが揺れた。風がそれを揺らすのを眺めているときが、世界で一番幸福な時間かもしれない。とても穏やかな気持ちになって、生きていてよかったと思う。網戸の向こうにやって来た名前のわからない虫や、生き続ける写真たちにうつる瞳と見つめ合うこの部屋が、自分が今までこの場所で感じていたあらゆる瞬間よりも確かに平和で、やっとここまで来たなと、突然言いようのない幸福感と安堵感に包まれてしまって、危うく泣きそうになった。

父はこの時期に生まれた人で、しかし自分の誕生日には無頓着だった。夏の流星群がやって来て、彼らは毎年飽きることなく父を連れていってしまう。決まって主役が不在の誕生日、私は母と二人で近くの田んぼまで歩いて行って星を見た。お父さんも今空見てるんかなあ、ここでは曇って星見えへんなあ、ほな帰ろか。母と寝ぼけ眼で二言三言そんなやり取りをして家に帰る幼き夏の午前二時過ぎ。サンダルの底が地面にこすれる音だけが響く。

父に火星を見ようと誘われた。屋根裏部屋にあった小ぶりな望遠鏡をベランダに出したと言っていた。そんなんで星見れんの、見れる見れる、今日曇ってるやん、もう火星出てるで来てみい。半信半疑でベランダまで足を運んだ。広いとは言えないベランダにそれはどんと置かれていて、物干し竿にかかったままのランドリーハンガーに頭をぶつけながら望遠鏡をのぞく父の姿は少年そのものだった。火星を見て、土星を見て、木星を見て、また火星を見た。父がこんな仕事をしているのにも関わらず、私は天体のことが少しもわからない。幼き頃、星はいつも父を奪っていくものだった。父と星を見る日が来るなんて思ってもみなかった。

寝惚けも腹も天井、向けまっせ。

「暑い、暑い。」と誰もが承知していることを、それでも口に出さずにはいられないこの夏。日中に自転車に乗ったら最後、一漕ぎした途端にもう外出を後悔する。暑さに顔をしかめ、漕ぎ続けなければならぬのは地獄への道か。まるで台所で肉じゃがを煮ているときに立つ湯気にわざわざ顔を近づけて、熱すぎる蒸気を鼻の穴で一心に受け止めているような感じ。人中はひりひりとして、鼻腔はいがいがとして、空気そのものが厚ぼったく重い。どうせなら肉じゃがの香りがすればよいのにと思うが、‘無臭’かつ‘熱すぎる’空気がまたこの鼻の穴に潜り込んできて、車輪が回るごとに額から汗が噴き出す。体中に駆け巡る熱と照りつける太陽に嘲笑されているかのような午後四時。

家に帰ると猫が眠っていた。少し前まで母のアトリエに適当な隙間を見つけて昼寝することが多かったが、近頃はもっぱら玄関近くの廊下にどてっと横たわり、人目も気にせず眠っている。彼が昼寝をする場所はその日によって、また時間帯によって少しずつ異なっていて、おそらくその時一番風の通りが良い場所を見つけて眠っているのだろう。ここだと決めたら、頭上を何度人間の足が飛び越えようが決して自分から動くことはない。その意思の固さには尊敬の念を抱くほどである。
しばらく彼を眺めていると、こちらの視線に気付いたのかうっすらと目を開ける。特に何か言いたげな様子もなく、ただそこで静かに呼吸をしてまた眠る。私が廊下の先にある和室でギターをぽろぽろと弾き始めると、少し体を持ち上げてこちらを見つめ、耳を小さく動かしなんとなく聴いている。こちらが弾くのをやめると、もぞもぞと腹を天井に向けまた眠り始めたりする。
次に猫の姿を探したころ、薄暗い廊下のあの場所は空っぽになっていた。ゆるりとした空気だけを残して、彼はどこかへ行ってしまったらしい。明らかに何かが欠けて寂しくなった暗がり。試しに彼のいた場所に寝転んで天井を眺めてみる。同じように寝転んでみても、この大きな図体が人間であるとはっきり叫んでいて、当然ながら猫にはなれない。少し首を傾けて向こうの方をみると、いつもと違う角度から見るいつもと同じ壁が夕日に染まっていた。フローリングを張った床はひんやりとして気持ちがいい。たまには廊下に寝転ぶのも悪くない。

白い部屋の呼吸について。

風は生暖かく、耳障りな轟音がぼうと近づいてはまた遠のく。頼りないビニール傘をギターのソフトケースに不器用に突き刺さしてバスに乗り込んだものの、江戸の風に煽られ3秒ほどでひっくり返ってしまった虚しさよ。ビニール傘と言えど新品ではなく、家の玄関の隅の方にあった、補修を重ね忘れ去られた熟年ビニール傘を持参したのが間違いだったか。いやこの風では、新品も熟年も関係なく一瞬にして花が咲いたように風に翻るだろう。

骨がむき出しになった傘は、それでもまだ半分ほど面が残っていて、辛うじて雨を受け止めていた。風が吹くたびさす向きを変えて、翻るビニール素材を少しでも元の骨の接着部近辺に戻そうと躍起になる。雨で足元が濡れて行くこの感触はいつまでたっても慣れない。突風が吹いて見た先に民家のガラス戸があって、そこに貼られた貼り紙には楽しげな字体で「盆踊り大会」と書かれていた。開催日にきっちりと本日の日付が明記されていて、その文字をも雨は遠慮なく叩きつける。この盆踊り大会は無事行われたのだろうか。延期になったのだろうか。

とうとうこのマンションにも雨が降り込んできて、それでも向かいの部屋の窓は開け放たれたままだった。以前見た時も開いていたけれど、台風に荒れる今宵も開いている。窓辺の鉢植えに咲く小ぶりとは言えない花々が、以前見た夕暮れ時よりも激しく揺れる。閉まる気配のない窓辺の主はどんな人なのだろうかとしばらく眺めるけれど現れる様子もなく、雨はきっとあの部屋を濡らしている。遠くの空はどんどんと闇に溶けて行き、航空障害灯だけが光る。また、ぴか、ぴか、と光り、時たま秘め事を話し、また、黙る。この道が確かに夜への入り口で、嵐は去りそうもない。

踊り子が生きている部屋は白い壁に囲まれていて、彼女の大切なもの達がぽつりぽつりと点在している。確かに呼吸しているそれらと生活する彼女が佇むキッチンの灯火。サクサクと包丁で何か刻む音がして目覚めるこの白い部屋。がこんと洗濯機の回る音が聞こえるこの白い部屋。大きな窓から月の見えるこの白い部屋。

ただ皆、幸福な夜があればいい。

夜行バスの待ち合い所は、雑踏を抜け暗闇を抜け、その先にある寂れたホテル街の中にあった。一本外れには飲み屋がずらりと立ち並んでいて、花金ということもあってかガラス張りの店は開け放たれたままで、中から黄色い声が漏れ出してくる。提灯が紅く点って、その脇から煙が漂って、終わりなき笑い声が響く。街がぼやけて行く。この筋の裏に宿屋街があるなんて、なんだか不思議だった。そういうものか。

何軒ものホテルが立ち並ぶから圧倒されてしまって、窓の数とか、看板の数とか、その字体とかネオンの数とか、今夜この箱の中で、どれだけの人が笑い合い、どれだけの人が泣き合いながら抱き合うのだろうかとか思うと途方もなく、ゆらゆらと足元が覚束なくなってしまったので、考えるのをやめることにした。ただ皆、幸福な夜があればいい。夜空を覆い隠すような高架下に閉じ込められながら、そんなことを思った。

立ち寄った近くのドラッグストアは日本語で看板が出ているが、店内に流れる音楽も、店外で呼び込みを行う店員さんも中国語で、まるで異国だった。私は確かに日本人で、確かに今日本にいるが、周りにいる客たちも揃いに揃って中国語を話すから、とうとう中国にいるかのような錯覚に陥った。売っているものは全て日本語表記で、整列したグミ類のパッケージが原色でやけに眩しい。それらに見つめられているような気がしてなんだか落ち着かなくなって、結局何も買わずに店を出た。

このバスに揺られて、私は運ばれてゆく。愛する街から恋する街へ、運ばれてゆく。目が覚めたら、きっと恋する街は雨降りで、台風がやってくるだろう。ただ皆、幸福な夜があればいい。祈り、願い、目が覚めたら、また歌おう。